2012年4月21日土曜日

カテゴリー[チェロキー] - 地球人スピリット・ジャーナル1.0



「フィンドホーンへのいざない」 誰もが癒される不思議な場所がある
寺山心一翁 1998/10 サンマーク出版  単行本  267p 
No.951★★★★☆

 リスト教的文化に培われた西洋文明の中に花咲いた天使や妖精のような世界の中に、日本人の視点が加わることによって、より全体性を帯びてくるような感じもするし、また、あまり急いで手垢をつけずに、そのまま純なままでいて欲しいという不思議な感慨も湧いてくる。出来れば、今のところは伊勢神宮p236などとリンクするのだけはやめてほしいと思った(笑)。

 農業や治療、ビジネスや政治などへの波及は当然あることではあるが、こちらもあまり急いでリンクせずともいいのに、と思ったり、いやいやリンクがあるからこそ成長を続けているのだ、と思ったり。特にこの本は、前二冊に比べはるかに日本的状況を書き加えているうえに、より現代に近い時代のフ� ��ンドホーンをレポートしている。また著者自身の体験も多く盛られている。

 ューエイジという言葉使いにせよ、エコビレッジというコンセプトにせよ、あるいはフラワーエッセンスや、フェニックス・ショップなど、フィンドホーンならではのオリジナルな考え方と発展の歴史があるようだ。原理原則のようなもので決められているのではなく、ひとつひとつの事実の積み上げから、ストーリーは成立している。

 実際にその地を踏むことによってしか始まらないことがあるのであろうが、また、誰もが簡単にその地を訪れることができるわけでもない。本を読むという体験では遠く及ばないなにかが進行していることは察することができるが、また、本から十分受け取ることができるメッセージも� �る。

 ブログにおいて、「チェロキー」カテゴリは、このエントリーで108を迎えた。フィンドホーンで終わるとは思ってもいなかった。今後、このカテゴリはちょっと意匠を変えて「アンソロポロジー」というカテゴリに引き継ぐことにする。名前は変わるがニュアンスはそれほど代わらない。

 もっと大きな枠組みの中で、大地にいきる人間達の営みのひとつひとつの波動が伝わってくるといいなぁ、と思う。行きがかり上、もうすこしフィンドホーン本を読み進めてみよう。そして、その時点でまだ余力が残っていたら、十分、天使や妖精たちの波動をあびてから、あのバチカンの本についても、再検討してみよう。




「フィンドホーンの魔法」
ポール・ホーケン /山川紘矢・亜希子・訳 1998/10 サンマーク出版 文庫 377p 原書1975 日本教文社版「フィンドホーンの奇跡」1981
No.950
★★★★☆

 対面の人に対して、あれ、どこかで会ったな、とか、誰かに似ているな、と思うことはよくあることだ。実際にはそんなことはないのだろうけど、自分のほうとしては、誰かと関連付けて記憶したい、その思いが、「世界には他人の空似が3人いる」というような俗信を生むのだろう。

 この本を読んでいて、他の何かとリンクさせたり、比較しながら自分の中で整理してしまいたいという欲望を何度も感じた。しかし、今はまだ早いと感じる。それこそ、なんの先入観ももたないまま、もうすこし進んでいったほうが、読者として受け取るものが多いだろう。

 ィンドホーンが唯一のものでも、絶対のものではないことは、創立者のひと� ��であり、アイリーンの夫でもあったピーターが後年この地を離れていることから考えても、わかる。アメリカからやってきたディビッド・シュパングラーの参加のしかたを見ても、そのことが分る。それにたしかにこのホーケンのレポートは、ちょっとロマンチックすぎるというのは本当だろう。

 「フィンドホーンの花」と内容は重なる部分も多いが、別な角度から同じ現象を見ることはステレオ効果があって、立体的に物事を浮き上がらせる効果がある。ただ、いずれも10年以上も前の本であり、また、結局は他人の手によってレポートされた内容である。その地に自分の足で立たないことには、自分の目に見えないこともあることだろう。



「フィンドホーンの花」
アイリーン・キャディ /山川紘矢・亜希子・訳 1994/11 日本教文社 単行本 353p 原書1988
No.949★★★★☆

 のような本を読み終わった直後に、私のようなうつけき男が、とやかくどうのこうのいうのは止めておこう。そんなことをするのは、どう考えてもあまりいい趣味ではない。自分の中で言葉が自然に降りてきて、静かに収まったころを見計らって、後日メモすることにしよう。

 なにか他の本や出来事とリンクさせて考えることはそれほど難しいことではない。似たようなことどもと、共通項を見つけて、一山なんぼ、一把からげすることも可能だ。見て見ぬふりもできるし、なにかのアナロジーを見つけることもできるだろう。しかし、今夜はそっと、このエネルギーを味わうにとどめよう。

 イリン・キャディは1917年生まれということだから、� ��し現在もご健在なら卆寿をすでに越えられているということになる。この本が原文で出たのが1988年だからちょうど20年前。聞き取ったライザ・ホリングスヘッドの手になるものとは言え、微にいり細にいり、その長く特異な人生ストーリーを赤裸々に追っている。

 翻訳も山川夫妻で、どことなくまだ新鮮さがあるような感じがするのは、こちらのひねた観察眼ゆえか。本文においてもニューエイジという言葉でてくるが、このフィンドホーンについて、バチカンがどうのこうのと言っているのが、なんとも可笑しいやら面白いやら。



「黄泉(よみ)の犬」
藤原新也 2006/10 文藝春秋 単行本 314p
No.946★★★★☆

 原新也著「インド放浪」は、ちょっと埃はかぶってしまっていたが、いまでも寝室においてある。奥付をみると、初版発行が1972年の7月であり、私が読んだのはその直後の9月である。高校を卒業してアルバイトでためた貯金をはたいて、仲間と3ヶ月のヒッチハイク日本一周の旅にでた。帰ってきて、4人のそれぞれの旅路を一冊にまとめようとして、ミニコミ雑誌「時空間」の創刊号を手作りで作っていた頃のことだ。


何contrysは、古代インドの軍隊はと戦うんでした

 インド旅行に関する書物は、当時、今からでは想像できないほど数少なく、貴重な一冊だった。後年、自分がインドに旅することなど想像もしていなかったが、当時から憧れとしてはあっただろう。1944年生まれでちょうど、私より10年、人生の先輩になる著者は、常に私の10年先を歩んでいたのかも知れない。それにしても、あれから35年の月日が経ったのかと、目がうつろになる。それこそ、この間、どれだけのガンジス河の水は流れ去ったのだろう。

 「黄泉の犬」というタイトルは、著者がインドで体験した、死体を食らう犬との対決の時のエピソードが元となっている。表紙はその時の写真だ。しかし、この本が出版されたき� �かけの実際的な一点は、麻原集団事件における著者の感慨の再まとめ、という意味合いにある。

 1995~6年にける事件に関する記事を「週刊プレイボーイ」に連載していた著者は、ある出来事をきっかけとして連載を中断した。それは、麻原の兄との対談だった。その兄もなくなり、麻原の刑も確定したところで、守秘義務はとりあえずなくなっただろうという判断のもとに明かされる「秘話」である。

 ブログにおいては、2006/11にでた「さよなら、サイレント・ネイビー」をきっかけにして、10年を経た事件をあらためて直視しようと読書を進めてみた。半年後には、「麻原集団事件」関連リスト を作って、自分なりには、決着をつけたつもりでいた。正直いうと、ふたたびこの事件を思い返すのはちょっと気が重い。すでに解決済みとして、パスしたい、というのが本音である。

  その想いは、私ばかりではなく、おおかたの気持ちでもあるだろう。著者にしてみたところで、それほど違いはないかも知れない。でも、著者はだからこそ、事件後10年経過して、本著を世に問うた。あるいは立会人として記録した。麻原の身体に関する個人的、あるいは歴史的事実に対する証言は、いずれは重要なものになるかもしれない。そういう意味では2006/2にでた高山文彦の著書と重なる部分がある。高山は、知られざる麻原の個人の歴史を記録している。
 
 著は、事件だけにとどまらずに、著者自身の人生における旅におけるエピソードの数々を紹介している。それはおもにインド・ネパールやヒマラヤにおいてのことだ。著者はベビーブーマーや団塊の世代のすこし上の年代にあたる。立場としては、宮内勝典と同じく、すこし兄貴風を吹かせるところがある。いい感性をもっているのに説教臭くて、どこか簡単に事実誤認をする宮内はあまり好きにはなれない。だが、藤原に関しては、兄貴分ではあるが、旅の同輩としてこちらをみてくれるだけに、逆に、甘えを許されないような威厳を感じる。ある意味、怖い。

 カトリックかニューエイジか、などという不毛の論争には無縁の人だが、どちらかいえば、ニューエイジの源流に位置する人物である。あ� ��いは、比喩的な意味合いにおいてだが、伽藍とバザール、という対比を使えば、まさにバザールを象徴するようなお人柄であろう。いやもっとうまい表現があるはずだが、浮かばない。藤原新也には「藤原新也」という独立したカテゴリが必要だ。「インド放浪」以来、藤原ガンジスはとうとうと流れ続けている。



「鯨捕りよ、語れ!」
C・Wニコル /森洋子 2007/7 アートデイズ 単行本 246p
No.945★★★★☆

 「調査捕鯨船に侵入、米活動家2人拘束 南極海航行中」という事件が起きた。事件というより、そもそもこういう事態が起きることが多方面から指摘されていたし、事件にすることによって、話題を大きくしようという意図が当事者にある限り、大げさに騒ぐのもどうかと思うが、ネットを検索すれば、限りなく情報はでてくる。

 「日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか」を出した星川が日本の代表を務めるグリーンピースではなく、シーシェパードという団体が今回の当事者だ。事件にいたるまでにはさまざまな要因がからみあっており、経緯も語られる立場によって多いに違う。ひとことでは片付かないが、たとえば、カト リックの立場から考えれば、このような環境保護団体も、一括して「ニューエイジ」とされる可能性もある。

 C・Wニコルについては、テレビでハムの宣伝にでていたとか、森林保護のファンドをつくったとか以外、ほとんど何も知らない。だが、話したことはある。1991年の国際環境心理学シンポジウム(SPS)の時のことだ。ニコルは多くのパネラーの一人として招待されており、私はスタッフの一人として忙しく会場を動きまわっていたので、3日間の長時間のイベントだった割には、彼に注意を払うことはなかった。ほとんどこのイベントで彼の存在を始めて知ったというべきだろう。

 会場は国際センターとして、コケラ落としのイベントであり、会議場も最新の同時通訳設備が自慢だ� ��た。二階の金魚鉢の中には、旧友のLオンのグループが後からみんなに絶賛されたほどの素晴らしい同時通訳を続けていた。会場にもガイジンが多くいた。観客には無線のヘッドホンが提供され、翻訳放送が容易に聞くことができるようになっていたのだ。

 タッフの私は、ガイジンを見つけると走りよって、この無線翻訳ヘッドホンを配り続けていた。会場の観客席にニコルを見つけたときも、私は彼のもとに駆け寄った。私がこのシステムを手渡そうとすると、彼は「大丈夫」と言って、受け取りを断った。その時、ああ、この人物は日本語が理解できるのだな、と思った。自慢の最新システムを断られたのはちょっと残念だったが、彼にしても「ガイジン」と見られたのは、ちょっと不� �であっただろう。

 多くの日本人は、ぼくのことを外人だと考えていて、ぼくは常にそのことを思い知らされる。かなり親しい間柄であっても、だ。ときにはちょっと心が傷つくこともある。ぼくの心はグリーンピースやシーシェパード、その他の西洋人のメンバーよりも、はるかに日本と日本人に近い。とくに日本のクジラ捕りに。p105

 の本は、実際に長期間、調査捕鯨船に乗って体験したことを、彼自身の言葉で書いている。小説とノンフィクションの間あたりの文体だろうか。小説とするにはあまりに事実に即しすぎているし、ノンフィクションというには、あまりに自己撞着しすぎていて、時系列もバラバラで、ちょっと読みにくい。あるいは、この辺は小説嫌いの私� ��偏見かも知れない。


1ドルが供給されます

 ただ、クジラ捕りの立場からのレポートを他に読んだことがないので、そういう意味では貴重なレポートであるだろうし、彼もまた貴重な書き手であることは間違いない。彼には他に「勇魚(いさな)」というクジラをテーマとした小説があるらしい。確かに、日本人の中においても、捕鯨問題についての意見は必ずしも一枚板ではない。現在ではさまざまな意見が表明されている。その中で、積極的にクジラ捕りたちに身を摺り寄せる「ガイジン」は珍しいといえるだろう。いや日本人だって、こうはできない。

 んなクジラ捕りが自らの体験について重い口を開くときは、たいてい他愛もない 話しがきっかけだ。彼らの話を聞くうちに、ぼくは相手の軽口にうまく歩調を合わせ、冗談や質問をはさむコツを学んだ。時々は、わざと話に割って入り、話し手がひと息つけるよう気を配ることも欠かせなかった。その胸の内には、まだまだおもしろい話しが眠っているにちがいない。話しを聞きだすタイミングとしては、お茶やコーヒーを飲んでいるときがいちばんだ。くつろいだ雰囲気の中だと、皆、かまえずに話しをしてくれる。無論、酒が入れば口の動きはさらに滑らかになるが、根が照れ屋の男たちだけに、ついつい景気づけが過ぎてしまい、肝心の話が始まるころにはすっかり酔いが廻っている。結局、まともな話を聞けずに終わることも少なくなかった。p135

 捕鯨問題について被害� ��意識のつよい日本人にとっては、外国は一枚板のように見えて、対話の糸口をつかみきれないところもあるが、C・Wニコルの一連の活動や著書は、よいきっかけづくりになってくれる。

 な話だが、グリーンピースとはだいぶ前に和解した。少なくとも、グリーンピース・ジャパンとは友好関係にある。捕鯨や人間の食用として海洋哺乳類を捕獲することの是非など、全面的に合意するのは難しいとしても、その他の人類が直面する環境問題において、われわれは多くの点で意見を同じくしているからだ。p234

 捕鯨問題を別にすれば、別にC・Wニコル以外の人間にとっても、彼らと「和解」することは、別に難しいことではない。ただ、捕鯨問題だけに絞りこん� �批判してくるようなグリーンピースには納得できない、というのは率直な日本人的感覚だろう。ましてや、今回のような「事件」をおこすシー・シェパードにおいては。

 十一世紀を迎えた今、クジラにとって最大の脅威は、もはや捕鯨船ではない。それは化学物質による汚染や騒音公害、地球温暖化などのもたらす環境破壊だ。地球上で、はるか昔から紡がれてきた「命の曼荼羅」が今、崩壊しようとしている。その点については、このウェールズ系日本人(作者は、1995年に日本国籍を取得した)も、グリーンピースやフレンズ・オブ・アースを初めとする多くの環境保護団体も、全く同意見だ。p234

 当ブログも同意見だ。


初読よりつづく


「シャンバラ」勇者の道 <再読>
チョギャム・トゥルンパ /沢西康史 2001/06 めるくまーる 単行本 241p
★★★★★+★

 末も押し迫り、なにかと気ぜわしい。読書もブログもままならない状況が続いているが、どっちみちこのブログも一定の目標をクリアして、次へのステップへの歩みが始まっているところだ。締めくくるものは締めくくり、また新たな気分で新年を始めようと思う。来年のことを語ると鬼が笑うので、まずは、今年中にやらなくてはならないことはキチンとしあげよう。

 「シャンバラ 勇者の道」はそんな中にあって、多忙を極めた今年一年ではあったが、ふと来た道を振り返り、新たなる明日への想いを強くするとき、自分自身を見返させてくれるよい本だ。このブログでは、チベット本は「アガルタ」カテゴリや「オ� �ム・マ・二・ぺ・メ・フゥン」というマントラを追いかける道筋の中で100冊以上読んできた。しかし、その中にあって、たった一冊だけ、チベット本を差し出しなさい、と要求されれば、現在の私は、間違いなくこの一冊を選ぶ。

 の本の最初の章で、シャンバラ王国の歴史とシャンバラの支配者たちにまつわる伝説を話した。そこで言ったように、この王国はいまも世界のどこかに隠れていると信じている人たちもいれば、この王国は喩え話にすぎないと考える人たちもいるし、ある時代に天の領域に移動したのだと信じる人たちさえいる。だが、私たちがこれまで話し合ってきたシャンバラの教えによると、これらの教えの源泉は---あるいはシャンバラ王国そのものは、と言ってもよいが---神秘的な天の領域にあるのではない。

 それは宇宙的な鏡の境地、くつろいで意識を拡大させた人間ならだれでも立ち入ることのできる根源的な領域に存在する。この観点から見ると、リグデン王と呼ばれる� �ャンバラの支配者たちは、宇宙的な鏡の領域の居住者にほかならない。彼らは広大な心の知恵、ドララの究極の知恵の根源的な表われと言ってもよい。だから彼らは究極のドララとも呼ばれている。p222

 「My life in Orange」「アメリカへの道」も、このブログで読み進めている段階では、ちょうど1980年代初半に差し掛かっている。そのアメリカのボールダーにおいて、当時のチョギャム・トゥルンパは、この「シャンバラ・トレーニング」プロジェクトを進行させていた。「スピリチュアル・データ・ブック2004」では次のように紹介してあった。

 チベットの理想郷、シャンバラ。本書はその諸説を追うものではなく、恐れを知らない勇者の道について説かれた極めてベーシックな本である。専門用語もほとんど使わずに、日々の中で、真っ当に、そしてスピリチュアルに生きるための知恵を教えてくれる。「スピリチュアル・データ・ブック2004」p218

 「世界のスピリチュ アル 50の名著」にもチョギャム・トゥルンパの代表作「タントラへの道」を一冊あげながら、彼のプロフィールをこまかく紹介している。


旅行ツインフォールズアイダホ

 街角やレストランで出くわしただけなら、誰も自分の話しなど聞かないだろう。トゥルンパは言う。しかし、彼がチベット出身で、トゥルンパ・トゥルクの11番目の生まれ変わりと知るや、突如押し寄せてくる。人は精神的助言者を見つけると、その素晴らしい師が宇宙の神秘への扉を開けてくれるに違いないと興奮するものだ。しかし、この興奮が冷めると、残念なことに、真のスピリチュアリティを求める道では、誰も自分を助けてくれないことを知る。独力で退屈な今を重ねてやっていくほかないのである。「世界のスピリチュアル」p348

 はふと考えることがある。新しいコミューンをつくろうと70年代からイン� ��国内のあらゆる可能性を探求したが、それが不可能だとわかった時、Oshoが、ここでアメリカへいくのもいいかな、と新たなる選択を見出したとしたら、その時、アメリカでのトゥルンパ達の「成功」が脳裏に浮かんだのではなかっただろうか。アメリカにはまだまだ受け入れる余地がある、と。

 そのころ、ボールダーでは、パンタ笛吹が「寿司三昧」を開いていただろうし、ケン・ウィルバーが、「シャンバラ勇者の道」の原稿に目を通し、助言をしていた。そんなことをいろいろ機縁を感じながら、忙中閑あり、この本を走り読みした。この本、原書は決して新しくはないが、日本語版は2001年になって初めて訳出されたことは、それだけこの本に今日性があることを証明していると言っていいだろ� �。


 

 ェロキー・カテゴリ編 =<再読>したいこの3冊= は、それぞれに個性のある意義ある本であったが、このカテゴリに属すべきほかの累々たる資料の山を思い出すとき、はて、この選択で正しかったのか、と思い返さずにはいられない。

 というか、多分、この倍か三倍の書籍がウエイティング・リストに載っており、ここで<総括>することなんか、とてもとてもできるわけはないのだ。<チェロキー>カテゴリのスタート地点で思い当たったことどもをもう一度再点検し、やがては<アンソロポロジー>カテゴリとして再スタートするための、なにはともあれの中間チェック程度の意味しか、現在はもっていないだろう。

 「ローリング・サンダー」は訳者たちへの思い込みが強すぎて、簡単に読み進めることができなかった。<再� ��>本に上げながら、今回<再読>できなかった。物理的な時間的拘束の関係ではない。今は読み進めることができない。ただ、すでに読了しているので、この本のもっている意味はわかっている。

 この本は、私のネイティブ・ピーポーへの接近のほぼ出発地点に属している。チェロキーのメディスンマン、ローリング・サンダーは、もっともっと親近感をもって、肉親的親愛の情を持って見つめられるべき存在だ。再スタートの機会を待とう。

 「1491」は<再読>完了したばかりだ。「ジャーナリスト」の手による歴史と地理の見直しは、固定的になりがちないままでの思い込みをこてんぱんにやっつけてくれる強いパワーがある。それこそ、歴史観がひっくり返るほどの「新発� �」が、たしかにこの本の中にはある。

 しかしまた、その探求の目は、時間や空間の「外」に向けられており、「内」なるものへの目が不足しているので、「私は誰か」という問いを背負い続けるバックパッカーたちには、ちょっと距離感を感じてしまうポイントだ。「フラワー・オブ・ライフ」(<再読>最後の砦として待ち構えている)シリーズのように、おせっかいがましく「私は誰か」という問いを突きつけられるのも、ちょっと辟易なのだが、すこしはそういう味付けが、この「1491」にもほしかったな。

 「プレアデスの智慧」は、ある意味、お手軽詰め合わせ品というか、お子様ランチ的(著者には失礼だが)な味付けが、実に現在の私にはぴったりだ。まず� �あまり重くならないでいこうよ。そして、あちらもこちらも、おいしそうなところは手を出してみよう。そして、なにはともあれ、全体の鳥瞰的納得観はやっぱり必要でしょう。

 「チェロキーインディアンからのメッセージ」というサブタイトルもいい。この本は10年ほど前の本であり、また寡作(であろう)な著者のほぼ唯一と言っていいくらいの書物のようであるが、そこがまた私には、煩雑な「おっかけ」が発生しない分、自己完結的なスッキリ観がある。もし三読や愛読するならこの程度の本がいいのだが、はてさて、何度もこの本を読んでいたら、化けの皮がはがれて、飽きてしまわないだろうか、という心配もないではない。



「1491」先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見 <再読>
チャールズ・C.マン /布施由紀子 2007年07 日本放送出版協会 単行本 621p
★★★★☆

 「チェロキー」カテゴリを通り過ぎ「総括」して、「レムリア」カテゴリもさっさと卒業して、次のステージへ移ろうとするこちらの意図を見透かすように、最後の最後に待ち構えている関門に位置する一冊一冊は、今までよりもさらに重きをなして、上から覆いかぶさってくる。

 重い、なんせ重い。重いはずだよなぁ、もともと新書読み程度の身軽さとスピードですすめていたこのブログで、とても読んでいられないよ、と後回しにしてきたのが<再読>本であり、しかもその数十冊の中でも、特に最後に残ってしまったのが、「チェロキー」や「レムリア」カテゴリの<再読>本たちなのだから。

 走の風が吹く世の中は、ますます多忙を極め、次から次と新しい課題を押し付けてくる。ひとつひとつを解決しつづけなくてはならない立場にあれば、なにをこんな多忙時期に、<再読>本たちと格闘しなくてはならないのか、と自嘲せざるを得ない。いやいや、多忙期だからこそ、超多忙期の前に、こちらの煩雑な<再読>本たちをかたづけなくてはならないのだ、と、反旗を翻す反乱分子もわがこころの中に住んでいる。

 もともと結局は、1000冊の本をまとめようとするのは、かなりの無理があり、あくまで仮定的に「インテグラル」はしてみるものの、いつかはまた下から盛り上がり、上から垂れ下がり、隣からははみ出し、前には立ちふさがり、後ろからはガン ガンと押し付けてくることになるのだろう。


 「1491」、この本も新刊であるだけにその視点も新しく、また、わが内なる「新発見」も続き、簡単に読み進める一冊でもなければ、簡単に読み進めるべき本でもない。作者が10年の歳月をかけたというごとく、読者もまた、時間をかけてゆっくりと味わってしかるべき一冊であろう。

 その印象は初読時となんら大きく変わるものではない。自らを「ジャーナリスト」と「卑下」する著者の渾身の一冊が切り開いている地平ははるかに広大であろうと推測できる。彼の立場であるからこそ展開できた大胆な推測もあるだろうし、いづれ誰かがやらなくてはならなかった部分もあるに違いない。いまはただ、そう遠く� ��い時期に三読の機会がくるかもしれない可能性を残して、一旦、締めておく。師走の暦もあと、残すところ、すくなくなってきた。


<1>よりつづく


「X51.ORG THE ODYSSEY」 <2>
佐藤 健寿 2007/04 夏目書房 単行本 261P
★★★★☆

 ガルタについては、佐藤健寿ブログ「X51.ORG」の中の「謎の地下王国シャンバラは"実在"するか ― 視察チベット編」に詳しい。本とブログの記述を読み比べてみると微妙に違いがあるが、それは、出版時における統一感のためと思われるし、若干の補足という意味もあるだろう。アガルタをAgharttha(p194)という表記にしていることは、このブログにおいては目新しい。

 シャンバラ、シャングリラ、アガルタに関しては、それぞれの成り立ちを説明しているものの、それぞれが互いに同一視化され、なおかつ、実在する場所としては特定できないとするあたりは、結論としてはとくに目新しくはない。ただ、著者の「世界の奇妙なニュースや、奇妙な事件を日々収集することをライフワークとしている」旺盛な表現力と行動力には目を見張るものがある。

 UFOやヒト� ��ー、雪男などへのアプローチは、私にとってはむしろ伏線で、あまりそちらの方向へ脱線されると、なんともついていけない。落合信彦などへの言及も、この本で初めて知ったこの「ノビー」とやらの立ち居振る舞いも、個人的には、やはりあまり感心しない。この人物は、母校の記念行事で講演を行ったので、もう20年近く前のことになるが、私も聴いたけど、その当時もピンと来なかった。

 「70~80年代のいわゆるニューエイジ・ブームにおいては、西洋における膨大な数のシャンバラ(シャングリラ)本が出版されているが、その多くは「ラマ僧から聞いた意味深な話→アジア放浪するも発見できず→実はシャンバラは私たちの心の中にあった」といった「ありがちな」流れの物が多く、今回の視察に� �いてはあくまでの実在としてのシャンバラを重視したため、それらの本は一切資料としていない。」p202

 ーム云々はともかくとして、「シャンバラは私たちの心の中あった」というオチが、私にはいちばんホッとする結論だ。「心の中」と簡単にいってしまうが、単に幻想や空想という意味ではなく、リサ・ランドールが仮定するような異次元の世界として謎解きされていくのが、真っ当な方向だろう。

 もちろん佐藤健寿のようなバックパッキングで、実在の存在を探求する人々のことを嘲笑する気は毛頭ないが、その勝算は薄いだろうと、初読時より、私は早々と結論を出している。地球空洞説にしたって、誰がどう真顔で説明しようと、その荒唐無稽な論� �には、まともな現代人ならついてはいけるはずがない。どこかで折り合いをつけなくてはならない。そこからの解決策として残されているのは、唯一「5次元」立証可能性しかないだろう。

<3>につづく


<再読i>よりつづく


「アトランティスの暗号」

 

 「アウトサイダー」以来、コリン・ウィルソンの視点は一貫しており、確かに、最近作のこの本は、彼の集大成ともいうべき位置にある一冊といえるだろう。

 ペンと紙を駆使することによって、現代人は地球史上、最も複雑な文明を作りあげた。脳は瞬間的に計算する能力を失ったが、現代人はコンピューターを使ってこれを補うことができる。

 これは極めて大きな短所がある---現代人の生活には、ほとんど強迫的ともいえる、狭く固定した集中力が必要だ---右脳の「鳥瞰」に対して、左脳の「虫瞰」といってもいいだろう。われわれは遮眼帯をつけた馬のようなものであり、鼻先より遠いところは見ることができないの� �。

 そしてわれわれは「クローズアップ」に囚われすぎているために、現代文明は空前といえる自殺率、精神不安に曝されている---なぜなら「クローズアップ」はわれわれから意味を奪うからだ。それこそが精神の健康には最も欠かせないものなのに・・・。

 ひと言でいえば、現代人は右脳人間にとっては当然の自由の感覚を喪失した。人間をひとつのロボットに格下げしてしまう世界に囚われ、鳥瞰する目を失ってしまったのだ。 p456

 <再読i>での4つの疑問のうち、古代文明の存在、カレンダー技術の構築、はわかったとしても、地球人以外の生命体の存在、意志伝達方法については、まだ本書においてはまだ解明されていない。ただ、ウィルソンは、「あちら側」からのメッセージでは� �く、「こちら側」から「あちら側」への検索機能でいえば、シャーマニックな存在が大きいだろうとし、また、そこには薬物的効果がある植物などが影響を与えていただろうと推測する。瞑想にも言及している。

 あるいは「地球人以外の生命体の存在」ということについては、「生命体」をどのように捉えるかだが、いわゆる肉体を持った人間という意味でない「存在」と人間が交流することはありえると見ている。

 がヨシはものごとの存在やエッセンスであるというだけではない。それは超感覚的な領域に独自の形で存在しており、この領域において常に両義的だ。つまり「似ているけど似ていない」「同じだが違う」。そして人間は、三つの部分から成っている。肉体、理性や言語と� ��連する社会的な自己、社会的でもなければ人間的でもない霊体だ。これは容易にほかのヨシと混じりあう。p261

 聖数7とプレアデスの関係や、その他の幾何学や数理における神秘性について、本書においては多くのページが割かれている。細かい数字は単位が不明なこともあってあまり追いかけなかったが、いつかその関心が深まったら、また本書を<三読>するのもいいだろう。



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