まずはお断りです。これは「マダム・ロワイヤルは替え玉だった」ということを真面目に研究している団体がドイツにありまして、そのHPにある情報を元に、自分なりに文章を書いています。
サイトは英語ですが、かなり興味深い情報が載っていますので、ぜひお時間があるときにでも読んでみてください。(実はドイツ語バージョンの方が情報が豊富なんですが・・・私は読めないので・・・)
ここではこの説の真偽は問いません。(そういう場じゃないし)こういう話もあるよ、という趣旨の上で書いています。そこんとこを念頭の上お読みくださいませ。
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突然ですが、問題です。
マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス。
マリー・アントワネットの娘。またの呼び名はマダム・ロワイヤル。
1778年12月19日、ヴェルサイユ宮にて生をうける。では、没したのは?
1851年10月19日、オーストリアのフロースドルフ。
1837年11月25日、ドイツのアイスハウゼン。
一応公式の記録では,正しいことになってますが、△世箸い説もあります。この説によれば、マダム・ロワイヤルは1837年に亡くなるまで「闇の公爵妃」という異名とともに、30年以上隠遁生活を送ったそうです。
どういうこっちゃ?
まずこの入れ替え説を説明する前に、マリー・テレーズ(マダム・ロワイヤル)の人生について、ざっくり説明しておきます。
1789年の民衆蜂起がきっかけで始まったフランス革命ですが、その後ルイ16世一家はテュイルリー宮に幽閉。1791年に逃亡するもヴァレンヌで捕らえられ再びテュイルリーに戻されます。
翌年8月10日のクーデターが起こると、一家ともどもタンプルに監禁。両親と叔母がギロチンで次々と処刑され、弟ルイ17世は(記録によれば1795年に)獄中死します。
その後、王の直系の子孫として唯一残されたマリー・テレーズは、オーストリアに捕虜として収容されていた12人のフランス人を釈放するための交換条件として、オーストリア(マリー・アントワネットの実家はオーストリア・ハプスブルク家)へと向かうことになります。
そんなわけで1795年に彼女は赦免され、伯父のルイ18世とともに一路ウィーンにわたりました。
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この時の彼女の立場は、非常に微妙なものがありました。この頃のオーストリア皇帝はフランツ2世。彼は弟のカール大公とマリー・テレーズを結婚させることで、あわよくばフランスの王位を手に入れようともくろんでいたわけですね。
実は国外に寄託されていたブルボン家の遺産も相当な額があったらしく、この婚姻を通じて、ハプスブルク家は金づるを確保したいという思惑もあったみたいです。(がっちりしてますねえ。しかしこの話はどういうわけかお流れになってしまいます)
一方、ルイ18世の方も「可愛そうな王女」を庇護することで評判を得ようとしておりました。そこで甥のアングレーム公爵との縁談をすすめ、1799年6月10日にロシアのミトー(現ラトビア)で二人を結婚させます。その後数年は、親かった国の王室に庇護されて暮らしましたが、各地を転々としていたようです。
1814年、ナポレオンがエルバ島に流され、フランスが王政復古をはたすと、叔父ルイ18世はフランス王となり、マリー・テレーズもそれについてフランスに帰国を果たします。
翌年、ナポレオンがエルバ島を脱出すると、ルイ18世をはじめ多くの貴族が再び亡命しますが、彼女だけはとどまり、テュイルリー宮のテラスから「ナポレオンに屈するべきではない」と訴えました。後にこの話を聞いたナポレオンは、マリー・テレーズを「ブルボン家唯一の男」とたたえたそうです。(ほんまかいな)
同1815年にナポレオンはワーテルローの戦いで敗北し、セント・ヘレナ島に流されると二度目の王政復古がなされ、彼女は極右王党派の黒幕として、宮廷で権力をふるうようになります。
この頃、彼女の凄みのある表情に笑みが浮かぶことはなかったようで、いつしかついた別名は「カインの公妃」。
彼女は父ルイ16世の死刑に賛成した人たちを片っ端から国外追放にしました。1824年にルイ18世が崩御し、義父(つーか、叔父さんでもあるわけですね)のアルトワ伯がシャルル10世として即位すると、アングレーム公は王太子となりました。そこから彼女はますます過激な行動をとるようになります。もともと亡命先から帰国した貴族の勢力が強く、ブルジョワジーを中心としていた自由主義者がこれと対立するという構図だったわけですが、シャルル10世は極右王党派を支持していたため、即位後には両者の対立が激化(多分マリー・テレーズもこれに一枚かんでた)。
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1830年、シャルル10世が出版の規制と選挙法の改悪を打ち出し、これに反発した民衆が蜂起します。世に言う「七月革命」なんですが、これでシャルル10世と王太子夫婦は国外に逃亡。その後はオルレアン家のルイ・フィリップが王位につきます。まあ、これも18年くらいしかもたないんですけど。
1851年、マリー・テレーズは亡命先のフロースドルフ(オーストリア)で亡くなります。
それでは、問題の替え玉説と言うのはどこから浮上したのか?
冒頭で紹介したサイトによりますと、マダム・ロワイヤルはのっぴきならない事情により、同い年の別の女性と入れ替わったというのです。
この「のっぴきならない事情」とは、1795年、どうもタンプル宮に幽閉されている間に、何者かによって乱暴されて身ごもってしまったから。当時ウィーン王家のカール大公やアングレーム公との縁談が持ち上がっていたマリー・テレーズとしては、これはかなり致命的でした。高貴な身分にある未婚の女性の妊娠は、当時スキャンダル中のスキャンダル。結婚などもってのほかでした。
また、フランス人捕虜の解放のための交換条件も飲んでもらえなくなるかもしれない・・・と考えたフランス内務大臣は、アングレーム公との破談を恐れたルイ18世と共同で(フランス王位を狙うハプスブルク家がフランス内務大臣と手を組んだという説もあり)替え玉作戦を練ります。(翌96年にマリー・テレーズは女子を出産しているようですが・・・それはまたおいおい)
替え玉として白羽の矢が立ったのは、なんと彼女の母違いの姉、エルネスティーヌ・ランブリケという女性。ルイ16世付きの侍女との間に「王の私生児」として生まれ、実母の死後は王妃マリー・アントワネットによって養女になりました。同じ年に生まれた彼女はマリー・テレーズとも仲が良く、二人とも同じ教育をうけました。特筆すべき点は、彼女もまた王の血を引くものだったということです。計画が持ち上がって以来、二人は時間をかけて準備をしました。
そして1795年12月26日、バーゼル(スイス)にてマダム・ロワイヤルはウィーン宮廷の代表者へ引渡されました。しかしこの直前、フランスの領土内で(ユナング説が有力)マダム・ロワイヤルとエルネスティーヌ・ランブリケは密かにすり替わり、バーゼルには偽の王女が到着したのでした。
さて、入れ替わった「二人の王女」がその後どうなったかといいますと。
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「マダム・ロワイヤル」となったエルネスティーヌの方は、先ほど述べたとおり。数奇な運命ののち、オーストリアで亡くなります。
では、マリー・テレーズ本人は?
入れ替え直後、彼女の身になにが起こったかは、まだ解明されていません。おそらく、事が露見しないように何処かへ身を隠したはずです。
しばらくの間スイスのハイデッグに滞在し、その後フランスのルマン近郊のスールシェに赴き、彼女についていた元家庭教師マルキーズ・ド・トゥールゼルなる人物の家族に厄介になったと思われます。
1799年6月には、オランダの外交官レオナーダス・コーネリアス・ファン・デア・ファリュックの庇護を受けますが、安穏とした生活を送ることはできませんでした。(二人は夫婦の振りをして行動を共にしていたと思われます。このファリュック氏、フランスの宰相タレーランの密命を受けて彼女を守っていたらしいという説があります。タレーランはナポレオンを見限ったあと、王政復古に暗躍していました)
面立ちが母親のマリー・アントワネットにかなり似ていたマリー・テレーズは、秘密を守るためかなり骨を折ったようです。1795年に描かれた肖像画が1803年にドイツで出版されるなど、彼女の顔はかなり広く知られることとなってしまったこともあり、人々の噂になる前にその地を離れることを余儀なくされます。また、彼女はナポレオンからも身を隠す必要がありました。もしもこのことがナポレオンの耳に入れば、フランス国内外の王党派への切り札として、どんな手を使ってでも確実に本物を探し出したでしょう。そんなこんなで、二人はヨーロッパを流浪することとなります。
1800年あたりは、ゴータ、イェナ、シュヴァインフルト、ハイデルベルク。1803年から翌年まではインゲルフィンゲン、フランクフルト、マイン、そしてマインツ。1806年にはオランダのライデン近郊のクーケンホーフ。そして、1807年2月にはドイツのヒルドバーガウゼンへ流れ着きました。二人は1810年までその地に暮らし、それから人里離れたアイスハウゼンの城へ。
マリー・テレーズはそこで隠遁生活をおくり、1837年に死去。後見人のファリュックは1845年に亡くなりました。そのミステリアスな人生から、二人は地元の人たちに「闇の公爵・公爵夫人」と呼ばれるようになります。
ところで1796年に生まれたマリー・テレーズの娘はというと、マリー・アントワネットの主治医だったクロード・ジョセフ・ティオリエという人物の養女になり、それからルイ18世のいたミトーの宮廷で育ちます。彼女の名前はアン・マリー・ジョセフィーヌ・ティオリエ。その後はフランスに戻り結婚。アン・マリー・プラタレー・ド・ヴィルヌーヴという名前になります。
彼女の子孫はまだ生きているはずだということですが・・・はてさて。
さて話を「二人の王女」に戻しますと、アングレーム公爵夫人が本物の「マダム・ロワイヤル」ではないという証拠は、かなりあがっている、とサイトでは説明されています。
まずはその顔立ち。先ほど述べたとおり本物はマリー・アントワネットにそっくりだったようなんですが、偽者はその面影すらない。(当たり前ですね。血のつながりはないんだから)
フェルゼンがウィーンの宮廷で「マダム・ロワイヤル」と再会した時、あまりに顔立ちが違っているので人違いじゃないかと驚いた、なんて話も残ってるくらいですしね・・・。苦労したから面やつれしたとかいうレベルの話じゃないくらい。そういう記録がかなり多く残っているそうです。性格もまったく違うということですし。あとは筆跡がかなり違うようで、鑑定の結果も「マダム・ロワイヤルとは別人」ということのようです。
また、替え玉がばれたことも少なからずあったようですが、そういう時は「口止め料」を支払ってたそうです。うーん。まことしやか。
参考:
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